700年前の日本はこんな感じかな
image byUnsplashfromtakahiro taguchi
2023年の初め、今年はどんな年なのかなぁと考えている中、開運系のYouTubeで「今年は1人でいることができないようだとよくない」という話をよく耳にしていた。
それを聞いて、たくさんの人と関わることの方が苦手な私は、「自分は大丈夫かもしれない」と感じていた。
同じ頃、何を検索したのかは忘れてしまったが「徒然草 第75段 つれづれわぶる人」の訳を目にして、
「同じようなこと、だいぶ昔の頭のいい人:兼好法師さんも言ってるじゃーん」
と、ますます励まされたのであった。
徒然草 第75段に励まされる理由
世の中には様々な人がいますよね
Image byAndre BenzfromUnsplash
「色んな人と関わり合いながらも自分の考えを保てることがいい」というような話を耳にすると、私はつくづくその態度が必要な立場には向かない人間だなと思う。
徒然草 第75段では「他人と関わると影響を受けて自分を見失う、人間みんなそう」ぐらいのことを言ってくれていて、その書き物が、日本の三代随筆に数えられているというのは素敵な話だ。
以下ざっくりと現代語訳「徒然草 第75段 つれづれわぶる人」
することがなくて困るという人の気持ちがわからない。
心乱されることなく一人で過ごすのが一番いいのに。
世間に合わせると世間のよくないものにまみれて迷いやすい。
人と話すと、相手の気持ちや反応を伺い、自分の本心を見失ってしまう。
人と戯れれば、争って恨んで喜んで、心を保つことはできない。
妄想が膨らみ、損得勘定ばかりになる。
酔っぱらいのようなものである。
酔って夢を見ているようなもの。
忙しく動き回り、本当にやるべき大切なことは忘れている。
人間なんてみんなこの程度である。
真理を悟る仏の道には至れないとしても、俗世間と離れて静かに暮らし、
世の中のことに関わらず心安らかにいるのが、短い人生の楽しみともいってよい。
「生活・人事・技能・学問のあらゆる縁をやめよ」と
摩訶止観(天台宗の根本聖典)にも書いてある。
吉田兼好氏はなぜこんな考えに至ったのだろう
Image by Arek Socha from Pixabay
現代ではテレビやスマホで、他人の考えを「受け取る」ことは簡単にできてしまうが、徒然草での人との戯れは、もちろん直で双方向のコミュニケーション。
直接人と関わると、思考にとても強い影響を受ける。
兼好法師さんは、できるだけ「自分自身でいる」ことが幸せだと言っており、「他人の影響で自分の頭の中があちこちにゆらゆらとしている状態」は、他人となんて関わらない方がいいという勢いでよくないものと捉えている。
兼好さんも他人に影響されやすいタイプなのかも知れないし、あるいは仏教の教えなのかも知れない。
摩訶止観のくだりが極論すぎるように聞こえるが
Image by Jill Wellington from Pixabay
最後の摩訶止観に書いてある「生活も、人付き合いも、何か腕を磨くことも、勉強も、ほとんど何もかもやめろ」というのは、最初はだいぶ極端な思想に感じた。
ネット上では「現代で庶民がそんなことできるかー」と言っている人もおり、私も初めは時代の違い=感覚の違いだと、内容を読み飛ばすほど非現実的なことだと捉えていた。
しかし、最近、小林正観さんの本「ありがとうの魔法」を読んでいて「人間何か望むものがなくなってしまったゼロの状態が幸せ」「素晴らしいものが手に入らなくても、目の前にあるものが幸せだと気づくことだ」という内容を発見し、もしかしてそれが何もかもをやめて至ろうとする世界観なのではないかとハッとした。
そうなると暴論でもなく、法師の中の法師の方がおっしゃりそうな内容にも聞こえてくる。
最近見聞きした、ネドじゅんさんの右脳さんと左脳さんの話も繋がるかも知れない。
右脳は幸せを感じている脳で、左脳は色んな情報から他人と比較したりして自分に「あーした方がいいんじゃないか」とかずっと言って考えさせてくる脳だということで、左脳を黙らせると幸せを感じられる=悟り?というような話である。
他人と関わると「自分と他人との比較」が、様々な尺度でどうしても行われる気がするが、何もかもをやめるとそういう相対的な視点もなくなり左脳がだまるのかもしれない。
働けるけど、ホームレス生活をしている方が楽しいと言ってのける人のような、それは別に不幸なことではないというような。
まとめ
昔からずっと、「世間と積極的に関わっていく人」と、「そこまで関わらんでもよくないか…?」と考えている人がいる。
今の時代は、せっかく「それぞれでいいじゃない」という雰囲気が出てきたのだから、是非この風潮が広がってほしい。
今謎の同調圧力のある場所にいなくてはならないという方も、たぶんもう少しの辛抱。もしくは、風通しの良い方へ移動されたい。